「言う」の「いう」を「ゆう」と書く
言う・いう・ゆう



「言う」を「ゆう」と書くのって、「王様」を「おおさま」とか「大きな」を「おうきな」と書くのと同じだよね。書き言葉と発音が一致していなくて(あるいは完全なる一対一対応ではなくて)、「書くときはこう」と決まっているのにそこから外れている、という意味で。

「言う」「行く」は書き言葉としては「いう」「いく」だけど発音時は「ゆう」「ゆく」でも構わない。「Y」系の「い」なんだろう、「言う」「行く」の「い」は。フランス語の「イグレック」のような、子音を含んだ「い」の音。だから、「言う」を発音するとYが弱ければ「いう」になって強ければ「ゆう」になる。ただ、「言う」という音を表す文字として正しいのは「いう」なので、書くときは「いう」と書かなくてはいけない。英語の文章を書くときに、「あなた」の「you」を「U」と書いたら(意味は通じるしラフな間柄なら構わないのだろうけれど)×を食らうのと同じ。

ただ、「言う」と「行く」では「ゆ」の許容度に若干の違いがある。
「行く」を「ゆく」と書くのは割とよく見るし、むしろ「いく」より「ゆく」と書いた方が適切に感じられるような言い回しすらある。「ゆくゆくは」とは「ゆくすえ」とか。それに対して、「言う」を「ゆう」と書かれると「書き言葉に直すべき話言葉がそのまま書かれている(≒間違った表現である)」という印象が強い。許容度というと何か「正しい文章作法」の存在が前提になってちょっと権威的だからもう少しフラットな言い方をするなら、「行く」の「ゆ」の方が「言う」の「ゆ」よりも認知されている。「ゆ」と「い」の間の発声の揺らぎが、「行く」においては筆記上も多少の分化を見せる程度に認知されているのに対して、「言う」においては未分化で、だからこそ発声が「ゆ」の側にぶれていてもそのぶれを文字として書き表すことに抵抗感がある。

ゆくゆくは国語の教科書で「言う」が「ゆう」と書かれることになるかといえば、当分の間はそうはならないんじゃないかと思う。
ら抜き言葉は五段活用以外の活用をする動詞から作った可能動詞だけれど、可能の助詞「れる」「られる」が受身の助詞をも兼ねるために助動詞で可能の意を表そうとすると受身のようにも聞こえてしまう(むしろ受身が第一印象)のは五段動詞もそれ以外の動詞も変わらない。私は可能動詞の沿革は知らないけれど、「五段動詞以外の動詞+れる」の組み合わせがまず可能よりも受身に聞こえる以上は「ら抜き言葉」の分かりやすさは市民権を得やすいのではないかと思う。
でも、「言う」としての「ゆう」は違う。「言う」を「いう」と書くことについて違和感を持ったり不便を感じたりする機会は(多分)無いし、「いう」ではなくて「ゆう」として定着した表現も(多分)無い。「ゆう」という発音はあくまでも「言う」としての「いう」を口語的に崩した発音に過ぎず、「いう」から分化した「ゆう」として書き言葉にまで浸透するだけの定型表現が生まれる気配も今のところは無い。
今のところは、私の語彙の範疇で考えれば、の話ではあるけれど。

そんな訳で、私は「言う」が「ゆう」と書かれていると結構痒い感じがする。「そーゆーことでしょ」というような、口語をそのまま持ってきました文章作法の無視は口語らしさの表現ですみたいな文ならともかく、親しい友人以外の人間に読ませる文章に使うのは不適切な表現だと思う。端的にいえば「頭悪そうに見える」。
でも別に頭良い人でも普通にそう書いていたりはする。頭の悪さを演出して「私馬鹿だよ無害だよだから仲良くしてね」と言外に主張する若者のエクリチュールになっているのかな、と私は勝手に思っている。むしろ、そういうアピールに違和感を覚えて「私には無理です」てなってる時点でちょっと社交性というか社会性足りないんじゃない?ってことになってしまうようである。
文法的な「正しさ」なんて、好みの問題なんだろう。この「なんだろう」だって本来なら「なのだろう」って書かないといけない表現で、でも何かそれだとかたいからあえて崩して書いている訳だ。だとすれば「言う」と「ゆう」と書いているのを見て「何か頭悪そう…」と敬遠するのはそれこそすごく頭が悪いということになってしまう。お前何様だよってね。自分だって書き言葉のセオリーにを一部崩しているくせに、それには目をつぶって人の非だけを論うのか、と。口語性が高いほど「親しげ」な印象が強くなるし、そういった親しさの演出が必要とされ、かつ許容される場面で「その書き方、頭悪そう」と指摘するのは野暮である。

「フォーマルな文章」というのは確かにあって、そういう文章が要求される場面も確かにある訳だけれど、極端にフォーマルな文章は多分何らかの一般人が読んでも意味が通じないような業界用語的な表現を伴うことになりそうだし、フォーマルにも様々な度合いがあるだろうし、周囲から浮かない程度の言葉遣いをしているなら「文章作法」的におかしい部分があろうと他人が口出しすべきことではない。
ただ、さほど親しくない相手、特に目上の人間に宛てた文章で「文章作法」を崩すのは、空気読めてないと思う。礼服をはだけて着るような無根拠な馴れ馴れしさは、相手を不快にする可能性が高い。相手との距離にせよ、文章作法の遵守にせよ、程度問題だし厳密な正解の探究は学者に任せておけば良いことではある訳だけれど、過度に馴れ馴れしくならないためにも、自分の使っている言葉が「口語的に崩した」ものかそうでないかについて、それなりに自覚的になる必要はあると思う。
(携帯電話のメールを打つ際の、顔文字や絵文字の使い方もこれに通じるものがある気がする)


とりあえず、「言う」を「ゆう」と書くのは今のところかなり口語的な表現だと思う。書き言葉として「不適切でない」どころか「不自然でない」という評価すらまだ難しい段階にあるのではないか、と個人的には感じる。十代の女の子同士が友達としてやり取りするメールの中で使うくらいなら違和感はないけれど、不特定多数の人が目にする(ことを前提とした)場面で使うには、フランクすぎる表現なんじゃないかな。

2010.6.22 若干修正&書き足し
2010.12.07 若干修正&書き足し 最後の3パラグラフの辺り
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by navet_merci | 2008-12-01 14:40 | 言い回しとか
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