シャリヴァリと呼ばれるもの
「シャリヴァリ―民衆文化の修辞学―」 蔵持二三也





そもそもシャリヴァリって何、という状態で読んだ。耳になじみのない言葉だと思う。

私がこの言葉を初めて耳にした場は、大学の政治史の講義だった。政治制度は色々あるしそれを基礎付ける政治理論も色々あるけれど、そういうものの根底には必ずしも政治とは直結しない、一般に思想だとか文化だとか呼ばれるものがあるからそういうものにも触れつつヨーロッパの政治史を概観するよ、という講義だった。
シャリヴァリという言葉が出てきたのは、フランス革命期の頃の話をしている時だったように思う。革命期のやんごとなくはない階級の人々のメンタリティについて論じる際に、『猫の大虐殺』という「(学者ではなくて)一般向け」の本の内容が一部参照された。その時に、話題にしていた「猫の大虐殺」は「シャリヴァリ」とは違うとか似ているとか、はっきりとは覚えていないのだけれど「今話している内容はシャリヴァリと関係があるんだよ」というようなことを先生が仰った。先生はシャリヴァリについて「共同体の暗黙のモラルに反する婚姻をしたカップルに対し、婚姻の夜に家の周りに集まって大騒ぎをして嫌がらせをすること」と一応の説明はしてくれたのだけれど、先生の中ではどうも「アメリカのハロウィン」や「リオのカーニバル」と同じくらいメジャーな風習と位置づけられているような話しぶりだったように思う。シャリヴァリの重要な要素である「ラフ・ミュージック」についても、あくまでシャリヴァリの説明の一環として軽く言及しただけでラフ・ミュージック自体についての説明は一言二言。大学生ならそれくらい知っていろ、ということだろう。私は知らなかったけれど。
先日、本屋にてシャリヴァリという言葉と久々の再会を果たした。そのものずばりの題名に、何となく見覚えのある著者名。多分、政治史の講義の時に参考資料としてこの本が挙げられていたのだろう。手にとってめくってみたら学術書っぽくなくて読みやすそうだったので、読んでみることにした。
(なお、本の後ろの方にフランス革命の話もちょろっと出てきた。これは確実に、参考図書として紹介されてるな。忘れっぽいってやだね!)

この本は、「シャリヴァリ」と呼ばれる現象を類型化して整理し、その現象が何によって引き起こされているのか、即ち現象の背後にあるものが何であるのかを論じる、という本だった。
シャリヴァリとは西ヨーロッパに広く見られた民衆運動というかお祭りというか馬鹿騒ぎ(全然違うものではあるけれど、個人的には日本の「一揆」が切羽詰っていなくて娯楽的になったものとイメージすると分かりやすいと思う)で、地域によって呼び名は異なるしやってることも必ずしも一様ではないんだけれど、類型化を受け付ける程度には同じような要素を備えている。だから何らかの一般化を受け付けるはずだ。シャリヴァリは野蛮な風習と論じられがちだが、背後には何らかの民衆文化があるはずだ。
そんな問題意識の下に書かれているようだ。
しばしば同じくヨーロッパの風習であった(である?)らしい「カルナヴァル」なるものに言及されている。「カルナヴァル」の研究の方が「シャリヴァリ」の研究よりも進んでいるらしい。シャリヴァリは「おそらくは周縁的な社会的事象」なのだそうだ。まあ、「カルナヴァル」を知らなくても読める。

とりあえずシャリヴァリの概要。
シャリヴァリというのは中世以降のヨーロッパの民衆の間に広く存在した慣行で、例えば寡夫と若い娘の結婚や夫が妻に打擲された時などに、近隣の住民によるラフ・ミュージック(鍋を叩いたり卑猥な歌を歌ったり)やアゾアド(対象となる人や身代りをロバの背に乗せて市中を引き回す)などの形で顕現する。地域・時代によってシャリヴァリの形態とその契機は様々と断りつつ、筆者によって類型化がなされている。226ページの図3によるとその基本形態はラフ・ミュージック、アゾアド・嘲笑、模擬裁判、仮(女)装、金銭・物品強奪であり、その対象(シャリヴァリの契機)は結(再)婚、姦通・性的不品行、弱夫・強妻、政治・社会的不満(ストライキ・デモ)、新年行事など。結婚系には全ての形態が見られるが、政治系は模擬裁判と金銭強要がなく、新年行事は仮装もない。

感想を結論から言えば、作者が遠く離れたヨーロッパのやんごとなくない人々の蛮行をここまで擁護する理由が分からなかった。シャリヴァリを行った人々の文脈から考えればシャリヴァリはあくまでもちょっとした騒ぎであって、悪行であるという自覚はあるにせよそれは共同体的には許された悪行であって、裁判で有罪判決が下るような犯罪ではなかったのだろう。とはいえシャリヴァリが蛮行であることは否定のしようがなく、そういった蛮行を「そういう文化なんだから蛮行蛮行言ってやるな」という態度には賛成できない。シャリヴァリが共同体のルールによって許された行為であるとするなら、蛮行は蛮行と認めた上でそんな蛮行を内在化した文化のある種の野蛮さを論ずる必要があると思う。シャリヴァリ的なる風習を有する文化だけが野蛮だということではなくて、どういう野蛮さがあればシャリヴァリ的なるものが顕現するのか、とかそういう話を。(まあ用語法の問題もあるよね。私は「蛮行」という言葉を「正当化の余地のない気違いじみた乱暴さ」という意味ではなくて「それを行った者が処罰・制裁を受けるべきということには必ずしも直結しないけれど、行為だけを見れば不当に他人を害する行為」という意味で使っているし、そういう意味じゃないと私の主張は立ち行かない)
まあ、作者も考えなしに擁護している訳ではないみたいだけれど。先行する研究の姿勢が「シャリヴァリは蛮行」という考えに偏っていたらしく、この作者の本はそれに一石を投ずる意義はあったらしい。というか、既存の研究とは一味違うよ!とアピールするためにあえて「蛮行」という結論に持っていくのを避けた記述をしたんだろう。
とはいっても、シャリヴァリが野蛮なこと、蛮行であること自体は認めた上で論じた方がいいんじゃないかなと私は思う。

(それに、シャリヴァリが集団的行動として顕現することには、「一人ひとりでは無力な民が集団になることでエリート層しかなしえないようにも思われる意見表明を行いうるようになるのだ」みたいな「民衆文化」的な側面以外の面もあると思う。行動心理学の実験で、被験者を「看守」と「囚人」の二組に分けて「看守」に「囚人」を苛めさせると「看守」役の人数が多いときほど苛め方が苛烈になる、みたいなのなかったっけ?それとも「看守」役が少ないほど温情的になる、だっけ?シャリヴァリの野蛮さって、「固有の文化」というよりは「人間の心理一般に共通する駄目なところ」をも包含しているように私は感じる。そういう部分に触れずにシャリヴァリの全てを「民衆文化の表れ」と語るのは不適切というか乱暴じゃないかな。まあ、そもそも心理学などは畑違いだからあえて触れなかっただけなんだろうけれど)

本書の終章において、筆者は「共同体的精神(セガレン)」の「溶解」、「心性(蔵持)」の変化によりシャリヴァリが衰退した、と述べている。では溶解・変化したものとは何か。
それはいわゆる「文化」である。より正確に言うならば共時的な文化。ある特定の人々の間で共有される、それなりの出自を求めうる程度には意味のある体系・枠組みであり、その文化の下にある人々を支配し影響を与えながら自身も変容を蒙りうるもの。「共同体的精神」は「共同体」の文化の主観的側面のことだし、「心性」はある文化の下にあることを前提にした特定の事物に対する姿勢のこと。
そして、シャリヴァリとは特定の時代における特定の地域の特定の身分の人々(非常に単純化したおおまかな説明をするなら「共同体」に帰属する人々)が有したある「文化」の、一つの現れである。ある人間が「共同体」の規範に抵触する行動を取った際に(あるいは抵触とまでは言わなくても共同体の構成に何らかの変化をもたらしうる行動が取られた場合に)、「違反(異常事態)」の存在を共同体全体に知らしめるレベルまで顕在化し、規範への服従を求めるべく威嚇・実力行使をする。いかなる違反に対していかなる威嚇がなされるかはその文化に影響を与えた文化(ゲルマン民族の文化・ローマ教会の文化・古代ギリシャの文化)辺りまで遡れば大体説明できるようだ。「シャリヴァリ」と呼ばれる現象は、元々は婚姻の規範に関する場合の示威行為だったらしいが、時代が下ると「共同体」の規範と「外」や「上」の規範とが衝突する場合にも婚姻関連でなされた示威行為と外形的に類似性のある示威行為がなされた。そして、「共同体」的なるものの衰退・崩壊と共にシャリヴァリ的なる現象も見られなくなっていった。
この辺の一般化は、まあ尤もなことを仰っているなという感じ。
でもやっぱりシャリヴァリに先行する「民衆文化」の何たるかについてもっと突っ込んで論じてあった方が、読者としては楽しかったかなー。シャリヴァリの淵源となる「民衆文化」の、私が野蛮と感じた部分についてもっと説明(まあ私は説明っていうか糾弾を期待してるんだろうな)があった方が読者としてはすっきりしたと思う。学者としてはたかだか一「周縁的な社会的事象」を観察しただけで「だからその背後にはこういう文化があるんだと思うんだよね!」なんて軽々しくは言えないだろうし、ここでは「文化って深遠だよね」に留めておくのが正しい姿勢なのだろうけれど。
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by navet_merci | 2009-05-28 00:39 | 本の感想
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