シュレディンガーの猫について
「シュレディンガーの猫」
ウィキペディアを読んでみたけどよく分からない。後で誰かに質問する時のための不理解度分析。

※ほぼ、ウィキペディアの記事を自分用にまとめただけ



 
 
 
箱の中に生きている猫・ラジウム・ガイガー探知機・青酸カリ発生装置を入れて蓋を閉める。猫は青酸カリが発生すれば死に、発生しなければ生存し続ける(=ガス発生が猫の死の必要十分条件であり、餓死のような他の要因による死は無い)と仮定する。

①ラジウムの原子核がアルファ崩壊を起こすと放射線が出て、その量が一定以上になると放射線をガイガー探知機が感知する。このガイガー探知機には青酸カリ発生装置が接続されていて、放射線を感知するとガスを発生させることになっている。
→要するに猫の生死はラジウムの原子核がアルファ崩壊を起こすか否かに懸かっている。

②アルファ崩壊は、陽子の斥力が核力を上回ると起こる原子核の崩壊である。斥力が核力を上回るか否かは、原子核における中性子・陽子の位置関係によって決まる。そしてこの位置関係は、量子力学においては不確定なものとされている。不確定、つまり原子核における中性子と陽子の位置は確率的にのみ決定される。量子力学的な揺らぎ。
→この絶対的な不確定性ゆえに、ある一時点におけるアルファ崩壊が起こっていない状態と起こった状態とは「観測してみない限り一つに重なり合った状態にある」と言うことができる。このような、「観測されていないと不確定な状態」を認める解釈論を確率解釈と言う。

(②’この不確定な状態群は、観測されてしまえば一つの状態へと確定される。故に思考実験として「重なり合った状態」を想起することは可能だが、観測によって経験的に認識することは不可能である。)

③よって、アルファ崩壊の有無が直結する猫の生死も同様の「重なり合った状態」にある。箱を開けて確かめてみない限り、猫が生きている状態と死んでいる状態とは重なり合っている。


という三段論法が、「シュレディンガーの猫」として有名な思考実験の概要のようである。

(一時間以内にアルファ崩壊が起こる確率が50%なら、装置の作動とかのタイムラグを考えなければ一時間後の猫は生きている状態と死んでいる状態とが1:1で重なり合っているそうである。そう考えると80%なら生きている状態は20%ということになるけど、それってどういう状態なのかすごく気になる)
(あと、↑の書き方を見る限り、箱の中の猫が「重なり合った」状態になっているというのは、「箱に蓋をしてから一時間後の観測(をこれからしようとしている)者」の視点においてのことのようである。「箱に蓋を閉めた時点の観測者」の視点による「未来の箱の中」ではなく)

より一般化すると、
<仮定>ミクロレベルの事象aとb、マクロレベルの事象AとBがある。abは相互に排他的、ABも相互に排他的。
①aならばAであり、bならばBである。つまりaはAの、bはBの、それぞれ十分条件である(※)。
②abは確率解釈を容れる事象である。
③よってABも確率解釈を容れる事象である。
ということになる。

(※高校の数学で習った用語法に従うなら、必要十分条件とも言える?猫の例の方では必要十分条件って書いたしね。しかし、Aという事象がaという事象を引き起こす訳ではないので、「aならばA」のみならず「Aならばa」の意をも含有する「必要十分条件」の語を用いるのは不正確かもしれない。なので一般化の方では十分条件としておく)


従来の量子力学は、粒子とかのミクロのレベルでは確率解釈をしておきながら、そうじゃないもっとマクロのレベルでは「重なり合った状態」を認めていなかった。例えば「箱に入れた猫が生きているか死んでいるか」といった、マクロスコピック・巨視的な観測の対象となり、それによってはっきり見分けることのできる事象については、観測されている・いないに関わらず状態は一つに確定していると考えていた(=状態見分けの原理)。

「シュレディンガーの猫」の例は、これを批判するものである。

アルファ崩壊の有無みたいなミクロレベルの問題においては確率解釈(「観測されていない状況における重なり合った状態」を認める解釈論)をしておきながら、マクロスコピック・巨視的な観測の対象となる事象について「観測されていなくても状態は確定している」とすることは、①・②という前提を認めておきながら③の結論だけを否定するのと同じである。これは①~③の三段論法がもたらした結論と矛盾する。マクロスコピックな事象全てについて確率解釈が可能かはともかくとして、少なくともシュレディンガーの猫の生死については確率解釈を容れなくてはならない。

だから何、という話はあるようである。「原子のスピンがどっち向きか」とか「一つの原子がいつ光を輻射するか」とか、量子力学で確率解釈を必要とするようなミクロの事象の観測値は、確率的に定まるものなのですごくばらばらになる。これに対して、マクロスコピックな事象についてはその観測値は経験的に割と安定した・分かりやすい・はっきりしたものである。箱の中の猫が「重なり合って」いると観念することは可能だが、マクロレベルでの「量子力学的揺らぎ」を観念することに実用的な意義があるかといえば、怪しいのかもしれない。


④だったら箱を開ける前と後とでは箱の中の状態は異なるのか、とかで色々解釈がなされている。
・コペンハーゲン解釈…箱を開ける前には重なり合った状態群が、箱を開けることによって生or死の一つの状態へと収束する。観測者による収束。
・エヴァレット解釈…箱を開ける前も箱を開ける後も箱の中の状態は変わらない。箱を開ける前には「箱を開けて生きた猫を発見する観測者」と「箱を開けて死んだ猫を発見する観測者」という二つの常態群が箱の外にも広がっており、要するに世界は二つある。箱を開けて猫の生死が確定すると矛盾する世界は消える。多世界解釈。記述される観測者。



私の「良く分からない感」は、この三段論法における②の部分、即ちミクロレベルにおける確率解釈の肯定に起因しているのだと思う。

「不確定さ」から「重なり合った状態」が導かれる理由が、感覚的に把握しにくい。しにくいっていうか完全に理解が追いつかない。

「手に持ったサイコロがどんな目を出すか」は実際にサイコロを転がしてみなければ分からない訳で、サイコロを転がさない限りは「1~6の目が出る確率がそれぞれ六分の一だよ」としか言えない。「サイコロを掌に載せている今」の時点では、「転がしたら出る目」は不確定であって「サイコロを転がした未来」にいかなる結果が生じうるかという確率の問題としてしか記述できない。

では、実際にサイコロを転がしてみて、出た目を確かめる前にサイコロに紙コップをかぶせてしまったらどうなるか。既にサイコロは1から6までのいずれかの目を上に向けて静止している。しかし、その目が幾つであるかは、紙コップを持ちあげてみない限り「確率的には~」としか言えない。「確かめてみないと分からない」という点では、サイコロを転がす前と同じである。

前者の「手に持ったサイコロ」については、「サイコロを転がした未来」における「重なり合い」を観念できるような気がする。「まだ転がしていないサイコロを掌に載せた今から見た未来」において、サイコロが1の目を上にした状態は、残りの2から6の目を上にした状態と六分の一ずつ重なり合っている。エヴァレット解釈的な言い方をするなら、そういう六つの未来がある。
(「サイコロを掌に載せている今」の時点では「サイコロを転がさない未来」もありうる訳だけれど、それはシュレディンガーの猫の実験で「もし箱の蓋を閉めなかったら」とか「猫を箱に入れなかったら」とか言い出すことと同視していいんじゃないかなと思う)

これに対して、後者の「紙コップをかぶせたサイコロ」については、確率解釈を適用できないのではないかと思う。既に試行はなされ、結果が出ている。サイコロは確定的に一つの状態にある。それが紙コップをかぶせた途端に六つの不確定な状態群に変わる理由が、私には考えられない。「今はまだ」誰にも分からないだけで、サイコロは確定的に一つの状態にあるはずである。

前者と後者の境目は、結果が出たか否かである。もう少し別の言い方をすれば、観測者の視点が結果が出た時点より前にあるか否か。掌の上にあるサイコロが、宙に放られて机の上を転がって停止するまでは結果は不確定である。「サイコロを転がした未来」には六つの状態が重なり合っている。サイコロが停止すると、「サイコロが出した目」は確定される。3の目を上にして停止したサイコロは、誰かがその目を読もうと読むまいと「3の目を出したサイコロ」である。

私には、量子力学が確率解釈を要求する状況というのが、後者の「紙コップをかぶせられたサイコロ」と同じ状況について述べているもののように思われる。観測されない限り、原子のスピンが上向きか下向きかは分からない。確率的には1:1である。しかしだからといって、ある一時点における特定の原子において、どこぞの人間によって観測されるまでは上向きの状態と下向きの状態が1:1で重なり合っているということになるのか?「最初から状態はどちらか一つしか無くて、ただ観測するまではどちらなのか分からないだけ」と考えるのが素直だと思うし、「そうではなくて重なり合っている」と考える理由が私にはわからない。

要するに、「今そこにある」事象についての、「サイコロを転がす前」の時点の視点における「サイコロが転がされた未来」の事象に匹敵する程の不確定さというものをイメージできないのだ。

(違和感はあくまでも「今そこにある」事象について確率解釈を適用するところにある。シュレディンガーの猫の「重なり合い」が「箱に蓋をする前」とか「一時間が経過する前」の時点から見た「未来の状態」について観念されるものなのだとしたら、「猫」の例は「紙コップをかぶせられたサイコロ」ではなくて転がす前の「手に持ったサイコロ」と同じである。この場合には、「未来の箱の中」において複数の状態群が「重なり合っている」ことについて私に異論はない)

量子力学で色々計算とかする上で「重なり合った」モデルの方が便利だから確率解釈を使ってます、みたいな便宜的な理由があるんだろうか。それとも、私の用語・概念理解が間違っているだけなのか。私は高校数学で微積分を習った時に「分母がゼロになる状態」をうまくイメージできなかった(イメージできなくても問題は解ける)人間なので、もしかしたらそういった自然科学的な操作の不得手が理解を妨げている可能性はかなり高い。


とりあえず、ただ単純に「何事も箱を開けてみるまでは分からないよね」という話ではないことは分かった。まず確率解釈と状態見分けの原理とが従来からの前提としてあって、この二つを混ぜるな危険だと指摘した点に意義があるのだという風に理解した。(というかウィキペディアにはそう書いてあった)私が理解できていないのは、「シュレディンガーの猫」の話それ自体と言うよりは、もう少しだけ総論的な、確率解釈自体についてなのだということも何となく分かった。

分かったんだけど、欲しい説明が貰える程度に的確に「分からなさ」を説明できる自信が無い。かといって一から自力で勉強するというのは…大変だよな。人に訊く時は、量子力学の素養+外国語の論文を読破する言語力はどこへ行ったら買えますか、という質問も追加した方が良いかもしれない。
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by navet_merci | 2010-09-18 01:12 | 言い回しとか
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