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キルケを思わせる
「強く儚い者達」 Cocco





Coccoについては、ファーストアルバムの「ブーゲンビリア」しか知らなかった。
引退して復活したら路線が変わったと聞いたことがあるけれど、そもそもどういう路線だったのかもまともに把握していない。引退前後にブーゲンビリアを聞いて、「へーこういうのもあるんだ」と思ってそれっきり。私は音楽にあまり興味のない、音楽関係の情報源がたまに観るゴールデンタイムの歌番組だけという子供だったから、「首。」や「カウントダウン」の歌詞の過激さ(病んでいるというよりは芝居がかっているだけだな、と感じたけど)と耳に優しくないアレンジ(尖った音とか、サビだけ大音量とか)に物珍しさは感じた。ただ、私はポップでキャッチーな分かりやすい音楽の好きな子供だったので、そういう物珍しさの底にあるアクにさほど魅力を感じることはできなくて、他のアルバムまで聞く気にはならなかった。

で、「強く儚い者達」だ。この曲は、Coccoのライブ映像(多分、復活後)から入った。ギター一つを伴奏に朗々と歌う声が綺麗で、メロディーラインが好みだったのでitunesに落とした。(ちゃんとお金払ったよ)ライブバージョンでないアレンジはよりポップで、「ブーゲンビリア」のイメージからは程遠い爽やかさに驚いた。「ブーゲンビリア」では病んだ歌詞は奇抜な音・病んでいない歌詞は綺麗な音、で分けていたのに、この曲では随分と毒のある歌詞を澄んだ、どちらかといえば明るいメロディーに乗せて割と普通にポップなアレンジを施していたので。

私はメロディーやアレンジのキャッチーさ・歌の上手さ(多分、音が外れてなければそれだけで上手いと感じてる)・声が好みか、だけで音楽の好き嫌いを決めているから、基本的に歌詞は二の次になりがちというか大抵はCDを買ってから歌詞カードを見て「うっわぁ」となることが多い。「音」に対する好みが凄く通俗的・大衆的なせいだろうけれど、そういう分かりやすい音に付いている歌詞って、大抵は下らなかったりついていけなかったりする。例えばマルーン5なんかがそうなんだけれど、自己陶酔系で傍目には「お前最低だな」って言いたくなるような身勝手な歌詞が多い。まあ、芸術なんてスマートな社会生活に適応できない鬱屈を源泉にしてこそ湧き出でるものだから、そんなもんだよね。後は、共感を誘う歌詞として書かれたんだろうけど共感できません、みたいなのも多い。いやいやいや、それそこまで普遍的な感情じゃないぞ、と。
それはそれとして。「強く儚い者達」の歌詞は珍しく、好みだった。お伽話を思わせる、醒めた女の語り。私は語り手の女性には共感できないし、背後にあるストーリーも人間ってえげつないよねっていう内容なんだけれど、押し付けがましさがなくていい。「人は弱いものよ」という歌詞は、哀れな男を前にした女の呟きであって、声高な主張ではない。

お話はこうだ。
「宝島」を探す長く困難な航海の果てに、一人の男が美しい港に辿り着く。港に住む女は男を我が家へ迎え入れ、歓待する。男には、故郷に残してきた恋人がいるのだという。「宝島」を見付けたら恋人の元へ帰るのだ、と。でもね、と女は言う。「宝島」を見つける頃には、男は「何も失わずに同じで」はいられないだろうし、残してきた恋人は新しい恋人を見つけていることだろう。「人は弱いもの」だし、「人は強いもの」だから。
「宝島」は、「愛する人を守るため、大切なもの築くため」に探求されるもの。でもそれを手に入れるためには、きっと何かを犠牲にしなくてはならない。女はそれ以上のことを語らないけれど、青天白日で「さあ帰ったよ」と恋人に笑いかけることのできる自分、が失われるということだろう。ライバルの探求者を殺めるとか、生き延びるために他人を生贄にするとか、人恋しさのあまり立ち寄った港町の女と浮気してしまうとか。晴れやかな顔で故郷の思い出を話す男が、「宝島」を見つける頃にはそういうことになっちゃうんだろうな、という女のほろ苦い予想なのか、もう既にそういうことになっちゃっていて「ああほらね」という溜息なのか、は聞き手の解釈に委ねられている。そして、変わらずにいられないのは故郷に残された恋人も同じことで、彼女はいつまでも夢を追っていった恋人を待っている訳には行かない。淋しいし、いつかは誰かと結婚して養ってもらわなくてはならない。だから、あなたが「宝島」を見つける頃には、「あなたのお姫様」にも別の恋人が出来ているでしょうね、と女は言う。そんなことも分からないで、口約束を当てにして、故郷を後にしてしまったの、という嘲りではないと思う。あなたは可哀想だけど、仕方ないことだから許してあげなさいね、という忠告。人間は、「宝島」というユートピアをただ求めるだけでは幸せになれない悲しい生き物なのよ、と。
歌詞の内容解釈としてはこんな感じ。

歌詞の雰囲気とかモチーフからは、キルケを連想する。ギリシア神話に登場する、美貌の魔女。外国へ戦争をしにいった王様が、勝ったぞさあ帰ろうという時に神様の機嫌を損ねたせいで十年も海をさまよった漂流記の、一エピソード。まず、暖かく美しい南の海ということで舞台からして被っている。
で、キルケだけれど。疲れ果てた乗組員達を歓迎する美しい女は実は魔女で、男達を魔法で動物に変え、飼おうとする。しかし主人公たる王様は、何とかキルケのペットになるのを免れて次の島へ出発する。このキルケと、歌詞の語り手が被る。動物への変身が人間らしくない状態への堕落の隠喩なら、ねぇ?語り手の女が色仕掛けをしてでも男を繋ぎ止めようとするかは分からない(でも絶対ないとも言い切れないよね)けれど、男が女を愛して、この港に住みつこうとした時に、女はきっとそれを受け入れる。それって、傍目には男を動物に変えて(=肉欲で繋ぎ止めて)近くに置こうとしたキルケと同じだよね。あくまでも傍目には、だけど。ギリシア神話の王様が故郷にお妃様を待たせているのも、被るんだよな。まあギリシア神話だと奥さんは凄く頑張って貞操を守るんだけど、ギリシア神話と現代の女性歌手の歌とでは同じ結末にはならないのは当然だよね。
まあキルケを云々するよりは、「港の女」というある意味普遍的なテーマと捉えたほうがいいのかもしれない。
by navet_merci | 2009-01-13 20:19 | 音楽雑感
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